2012年03月19日

配偶者の自尊感情

娘のAmiは、アスペルガーだろうと、多少手がかかろうと、無条件に可愛い。なんとしても力を尽くして、できるだけ本人の持ち味を活かし、できるだけストレスを減らして、社会に順応できるよう、親として精一杯、支援したいと思う。

発達障害の親は誰でもそうでなければならないなんて、思わない。いくら頑張っても、受け入れられず、前向きになれない親だっていると思う。それはそれで、仕方がないと思う。私の親なら、絶対に受け入れないだろう。そういう親を子どもが受け入れるのは、もっと難しいと思うけど。

でも。夫のアスペルガー的態度には、いつまで付き合えるかまったく自信がない。もちろん、夫がアスペ的であるとわかってから、家庭生活はマシになった。夫も心の奥底では何か感じているのだろう。多少、態度が軟化した。そして、私は私で、アスペ夫の妻本などから得た、乗りきり法みたいなものを自分なりに取り入れて、ある程度、かわしかたを実践できるようになってきた。

再び、でも。
釈然としない。
夫は、
「俺は違うよ」
「医者が経験だけで診断するんだって」
あくまで否定する。その言葉の裏に、「障害者」や「精神病患者」に対する差別感情があり、私に対する上から目線があのを感じる。

最近読んだ本、佐々木正美著「アスペルガーを生きる子どもたちへ」はアスペルガーの子育てをする者には、とても勇気づけられるよい本なのだけれど、大人のアスペルガーに関する記述には、どうしても納得できない部分もある。

それは、
「アスペルガーの人たちは、誠実でまっすぐである」
という部分。

少なくとも、夫は、私や自分自身に対しては誠実ではない。
自分の弱さを認めることはしないし、脳の機能の違いによって生じる行き違いによって起きる不都合は、すべて自分以外に原因を求める。そういう姿勢を、果たして誠実と呼べるのだろうか?

アスペルガーの人の配偶者や子どもに対してよく言われることに、
「アスペルガーの人ができないことをやれというのは、目の見えない人に見ろ、耳の聞こえない人に聞け、足の悪い人に走れと言うようなもの」
という言葉がある。

子どもについては、その言葉はもっともだと思う。でも、大人の場合は?もちろん、理屈としては、その通りだと思う。できないことは、手伝う。譲る。そんなのは人間として当たり前のことだ。

でも。
三度目の、でも。

目の見えない人が、「自分は見えている」と言い張るだろうか。「目の悪い私が見えていないと言うのは、お前のほうがおかしい」と言うだろうか?見える人に手を貸す、あるいは見えない世界を共有するのが当然として、感謝することはないのだろうか?手を貸さない人

見えない世界を理解しようとしてもできない人を、バカにしておかしい人扱いをするのだろうか?

しないと思う。

健常者同士であっても、得意不得意があり、お互いに助け合い、譲り合い生きている。そういうときには、その時々に感謝しあい、労いの気持ちを持って接する。

でも(4どめのでも)、夫は違う。自分のルールに合わないことをする人間は、ことごとくバカにする。見下す。私など、娘を妊娠してからの5年余り、何度、
「(頭が)おかしいんじゃないの?」
と言われたことか。

どっちがおかしい、とかじゃなく、どうしたら、お互いに気持ちよく過ごせるか、考えたいのに、夫は自分が気持ちよければ、万事平和だと信じているのだ。それは、夫をアスペルガーと推定した今、「自分さえよければいい」という自己中心的な考えから来るものではないと、頭ではわかっている。

それでも、夫の知識と私の知識にズレがあったときなど、
「そんなこともわからないの?何も知らないんだね」
と言われる(事実としては、私の知識が正確なことが多い)ようなことが、全ての状況で続くとしたら。
いや、続くのだから。

私は何を拠り所として、自尊感情を保てばいいのだろうか。
posted by プルーン at 15:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 大人のアスベルガー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月16日

親(大人)としての振る舞い

3回目の療育のとき、待合室で悲しい場面に遭遇してしまった。

その日は、定型の子が多いであろう保育園の入園前健診があるということで、待合室には赤ちゃんも子どもも結構沢山いた。

待合室には、大人向けの本や、子ども用には絵本、玩具も豊富に揃っていて、子どもたちは靴を脱いで自由に遊ぶことができる。

療育が終わって、バスまでの時間、Amiをそこで遊ばせ、私はソファに座って、備え付けの「光とともに」を読んでいた。

赤ちゃんの泣き声がして、ふと顔を上げると、すぐそばに4,5歳の男の子の後ろ姿、その延長に泣いている赤ちゃんを手で支えるお父さんが、ものすごく怖い形相で男の子を睨み付けているのが目に入った。私でも怯みそうな恐ろしい顔だった。
次の瞬間、
「この子が何かしたか?」
と、怒声がお父さんの口から出た。
大きな声ではないものの、明らかに脅しが入った口調。般若の形相をしてこんな声で威嚇されたら、幼児なら定型の子でも身がすくむだろう。

男の子は自閉症スペクトラムのどこかに属する子のようだった。そばにいたお母さんも、何が起こったのかわからなかったようで、ひたすらそっと「ごめんねって」と何度も男の子に働きかけるのだが、それは無理と言うもの。お母さんにしても、流血沙汰が起こったかのような勢いに、動転したんだと思う。

話を聞いていると、どうもプラスチックでできた高さ40cmくらい、直径30cmくらいの螺旋状のタワー(ボールを転がして遊ぶ)を、男の子が押してしまって、赤ちゃんのおでこに当たってしまったらしい。

赤ちゃんは痛いよなぁ、確かに。

でも、そういうときはまず、抱っこしておでこを撫でてやるのが先じゃないの?赤ちゃんは謝ってもらったって、何の慰めにもならないよ。つかまり立ちがやっとなんだもの。

そして。「あー、やっちゃった」っていうときの幼児に詰め寄ったって、何の解決にもならない。自閉系の子はもちろん、謝るのはすごく苦手だから、「あー、ヨシヨシ」の一拍をおいた後、静かに諭しても、謝らせるのは難しいと思う。でも、定型の子だって、小学校低学年くらいまではこういうのは効果がないと思う。萎縮させて恐怖感を抱かせるだけだよ。

要するに、このお父さんは、自分の「持ち物」に傷をつけられた怒りをぶつけただけ。

さらにその赤ちゃんは、災難なことにまた帰り際に別の子に、持っているものを取り上げられたか何かして泣かされていた。そのときも、お父さんは怒りを露にするだけで、自分の子のケアは全くなし。抱き上げてやれば、すぐに機嫌が直りそうなことだったのに。

お父さんは、髪がほとんど残っていなかったので、老けて見えただけかもしれないけど、40は過ぎている様子。お祖父ちゃんだったのかも。

最初の男の子とお母さんは、センターの職員による何とも歯切れの悪い仲裁で救い出され、別の場所でケアしてもらったようだ。赤ちゃんはもちろん痛かっただけで無傷。

この事件の直後は、自閉症スペクトラムは理解されにくいんだなぁ、困るなぁ、という感想だった。

でも、時を置いて考えると、赤ちゃんのお父さん(おじいちゃん?)の人間としての未熟さが悲しくなった。親になる資格がないんじゃないの?と言いたくなる。自分の子のフォローもできないで、よその子に怒りをぶつけるだけなんて。

そういう親に育てられる赤ちゃんが、可哀想になったし、そういう風に育った子達とAmiも渡り合っていかないといけないかと思うと、気が滅入る。どうか、こういう親は、少数派でありますように。赤ちゃんが素直に育ちますように。
posted by プルーン at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | アスベルガー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月15日

その後の療育

初回の療育が悲惨だったことは、「2月28日、初訓練」に書いた。

2回目からは、
「方針を変更しました」
とのことで、言語聴覚士さんと二人でゲームをする形になった。

勝負のつくゲームを、ルールに従って対等なやり取りを身につけるのが狙い。

そういえば、Amiは勝ちに拘って、負けそうになると、途中で自分に有利なマイルールを作っちゃったり、ベソをかいたり、癇癪を起こしたりするんだよな。

「お友だちとだと、お友だちが優位に立ち、お母さんだと自分優位に振る舞う傾向があると思うので、そうではなく、対等な関係を持つ練習です」
ということだった。

2回目の療育(3月7日)は、楽しく過ごすことができ、3回目(3月15日)は行き渋ることなく、楽しく終わることができた。
次回は、4月7日。
posted by プルーン at 00:00| Comment(2) | TrackBack(0) | アスベルガー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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